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建築家トップ > バルセロナ便り > 第195回

実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

建築とは芸術作品でもある

ガウディは
レオナルド・ダ・ビンチは<<晩餐>>を終え、彼が描きたかったキリストの栄光が現れていなかったので泣いた。ラファエルは泣かなかったが<<変身>>を描き終え、彼が慕っていたキリストになっていなかったので絶望した
というコメントをベルゴスとの会話で述べている。

芸術作品というのは感性が反映されていることの例えを、ガウディは歴史的な芸術家達の例を挙げて説明している。
サグラダ・ファミリア教会の誕生の門中央に、ヤシの木の上に飾っているキリスト誕生のシーンがあるが、その樹幹のような柱にはアダムとイブからキリスト誕生までの系図が記名されている。
しかしその系図は、鍛鉄による格子で保護されている。
これも芸術家の計画であるとするなら、キリストの系図をどうして見え隠れするような格子に入れてしまったのかという疑問に苛まれる。
アダムとイブの下には、蛇が玉を口にくわえている。玉の様に見えるが聖書の世界からすればリンゴのはずである。
紀元前9世紀から8世紀の間に、ヘシオドスがギリシャ神話の中でヘスペリデスをつけくわえているとされている。ここでは金のリンゴが登場する。つまりギリシャでは不死身になれる金のリンゴとなる。その後、紀元前4世紀頃までに現れる旧約聖書でのリンゴは、知恵を与えるリンゴで寿命を与えてしまう。
国変われば意味も逆転してしまう例である。
民族が変わるのだから当然なのかもしれない。
ガウディは聖書もギリシャ神話にも精通していたはずだ。
そこで小さなリンゴにその矛盾を感じたのだろうか、それとも解釈の違いを感じたのだろうか。
神話と聖書に挟まれたガウディは葛藤を抱いたのではないだろうかとさえ思わされる。
そのテーマに触れるようで触れないようにする為の手法として、この鍛鉄格子が現れたガウディの感性を反映させた手段ではないかと思える。
キリスト信者にしてみれば創世記は重要である。でも世界にはそれ以外の人種もいるという認識において、普遍性のある建築を計画する時にはその中庸的な解決策もまた必要ではないだろうかと示唆しているようにもみえる。
それしてもリンゴと蛇の関係をもう少し探ってみる必要がある。
建築から離れて民族学的な世界を覗くと、建築のはじまりはまさしくこの民族による習慣が建築に反映されているという事は言える。であれば民俗学を無視するわけにはいかない。
風俗習慣も建築に反映することが明らかな人々の生活も当然の事ながら建築に反映される。
つまり建築を見る事で逆に地域の民族性や習性や習慣も観察する事ができるようになるということである。つまらない建築はそれらの反映を一切削除され、プラモデルのようにどこでもだれでも作れてしまうのだろう。そのような建築というのは建築作家がつくるような建築ではない。工場生産された材料を組み合わせただけのモデルである。まるでロゴのおもちゃのようなものなのかもしれない。
建築とは、やはり思慮深い建築家達が作る芸術作品として、地域や民族も含めて時代を唱い上げた作品でなければならない。
これが建築家本来の専業ではないだろうか。しかも地域の生活環境さえも考慮できる人達の事を指す。
ガウディが執拗に建築家のあり方を語っているが、そこでは芸術品としてとらえているのは事実である。

     
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