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建築家トップ > バルセロナ便り > 第223回

実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

美学を哲学的にとらえると

認識については、上位認識学である論理学と下位認識能力としての感性学と言う具合にわけられている。では哲学はどちらの分野におさまるのだろうか。
物事を論理的に整理分類するのが哲学の分野であるとすれば上位認識学になるが、美学のような感性を取り扱う分もこの哲学で扱うとすれば下位認識学となる。
つまり美学を下位という認識にすることでどんな意味があるのか。
物事も解釈次第であり、生活の一部である美学という本質を下位や上位と分類することでどんな意味をもたらすというのだろうか。それによって生活が向上するとでもいうのだろうか。それとも悪化するということでもないはずである。
哲学が生活における行為行動のための論理を教えてくれる学問だとすれば、美学が感性のあり方としてどうあるべきかという具体的な論理を教えてくれる学問であるはずである。それが「実践美学」ということで分類できるのであればその立場からガウディを見る事をすすめる。

では実践美学が日常生活の感性だとすれば、日常生活の感性とは何かという初期的な問となる。ここでは倫理的な条件によって生活を営みそこで築かれる地域社会、たとえば家族なども含めて、その生活における感性という設定にする。
そこには家族における感性、さらに親、子供の感性とある。血のつながった家族なのにも関わらず、生まれた時から子供と親の環境が異なれば、DNA上では類似している所はあっても思考と生活環境がまったく異なる事から親とはまた別の個性が育まれる。
つまり感性における普遍性という言葉も曖昧になるということである。
秩序、基準、法規、規則、法律全てが社会の中で組み立てられる基準であり、それを越えてしまうと基準法違反で処罰の判定が下される。
美学はそれらの基準を超越したラインでの感性を示唆している。場合によっては理想の世界までもが思考の範疇となる。

普遍性をもった美しさというのはどのように解釈するのだろうか。
美しさの基準が人によるものであれば、むしろ美の普遍性などありえないということにもなる。
では美とは何か、その根源が如何にということになる。
哲学者でもない私がこのような哲学的な説明をするのは問題があるかもしれない。しかし生活や人生の本質を見つめる行為が、自分なりに過ごせて来たことがある種の指針であり、それをより理想的な方向性にガイディングしてくれるのが哲学だと信じている。
ガウディの説明する装飾や美学は、自然に普遍性があるものとし、審美眼によって素材やものの価値判断をしていたという考察を受け入れるとどうだろうか。人間に限らず世の中の生物達も含め、それぞれの世界には自然から与えられた役目があるという認識で観察する。それらの動きや形が自然美であり、それがむしろ「美学の根源」であるのではと思うほどである。それが生命の誕生であり、その誕生までの過程や成長もまた美学に包括されるという見方はおかしいのだろうか。

プラトンによる宇宙の四元素は自然界における幾何学に置き換えられる。
つまり自然物理、生物、植物、そして倫理も加えて、自然の中のエコシステムに存在する意義をそこから見出す事が、「自然の美」ということの定義づけとなることを示唆している。

     
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