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建築家トップ > バルセロナ便り > 第229回

実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

何故建築図面を描かなかったのか?

実測、作図と言う作業は肉体労働である事は確かである。それを36年間以上も続けてきた自分の姿を顧みる。するといまだにはかる事を止めていなのが気になる。長い期間の作業は、体にリズムをもたらす。それを継続させることは一定のリズムを体に与えて新陳代謝を促す事になるので体には有効である。それを止めると言う事は、自分の人生の終わりと同じ意味を示す気がしてきた。

思い過ごしと言う見方もあるかもしれない。作図もまた同じように手描き作業をストップさせると、人間本来もっている機能が低下する。すると脳細胞の動きも緩くなる。それでなくとも本来から緩い頭脳が更に緩くなるとどうも問題が生じるような気がしている。その姿勢でガウディの建築作品と向き合うとどうなるか。
相手は手強いというより彫刻の塊のような建築である。しかもその裏には建築技術を駆使した細工まである。それらを測る行為によってそこまで覗かせてくれるのである。別に人から頼まれたわけでもない作業はいまだに続く。
いつ終わるとも解らない作業と研究を続けるだけで周りの人達から疑われる。
それで生活になるのかという質問もある。直接的にはない。
その作業による副産物が、経験によってかけがえの無い糧になるはずだと信じていままでその作業を続けて来た。実際に最近手がける建築計画では、以前の自分と比較するとその応用性は比較にならないほどの違いを見せている。それが生活、社会の為にどのように還元できるのかというのが今の課題になっている。
小さな世界での僅かな行為が、研究を始めて42年以上を費やしている。作図をすれば確実に形にはなる。さらにそれを管理するのがまた大変である。

考古学の世界なら組織的な活動である為に、発掘すればその遺品はどこかの博物館に展示されたりする。

私の実測図は、あくまでも個人研究という特性から、そんな機会がない。
それが最大の問題となっている。

これまでに実測のデッサンから仕上げの作図まで数え切れないほどの描画をしてきた。それをどのような処理をしたら良いのかと現在悩まされている。
だれかが新たな提案をしてくれないだろうかと思っているが、すでに本にはなっていても現物の作図を世間に見せる機会に巡り会わない。

そこで、ガウディが作図をしなかった理由はなんだろうかと考えさせられる。
一つは作図に時間がかかることは確かである。しかも彫塑的なものであればその作図も複雑であり、多くの詳細図も必要になる。特にサグラダ・ファミリア教会やグエル公園の作図は、並外れている。これらの作図をする事の方が狂気に思えた。私が初めてサグラダ・ファミリア教会を見た時のカルチャーショックそのものである。

1883年以降のガウディ建築に関わる建築計画の作図は、サグラダ・ファミリア教会の協力者達による作図が殆どであるといって間違いない。中でも右腕とされていたフランシスコ・ベレンゲールの存在はガウディにとっては大きかったはずである。つまり彼が中心となって建築用の作図を描いていたとされている。
     
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