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建築家トップ > バルセロナ便り > 第227回

実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

決して気まぐれなデザインではない

ガウディの建築は何度見ても飽きがこないのは不思議である。
その窓口になっている建築ファサードは、どれもが異なった表現になっている。つまり各オーナーに応じた機能と地域性による表現方法が配慮されているからである。
建築計画に関わるアイデンティティーを駆使した素材によって、建築の形が設定される。これを「建築演出」ということばで表現される。
日本だと「意匠」ということになるのかもしれないが、私がカタルニア工科大学バルセロナ建築学部大学院に在籍していた頃は、さらに具体的な科目としてビジャヌエバ教授がその科目を教えていた。
この科目は形を設定する場合に、建築コンセプトで歴史性、民族性、宗教性、地域性などが演出されているという。わたしにとっては非常に役立っていた科目である。つまり、形や美学の論理を生活の媒体や地域の特性を生かして建築に反映させる術を教えてくれるのである。
これをシンボリズム的な表現として理解すると解りやすいのかもしれない。ところがシンボリズムと表現すると、宗教的、神秘主義的な見方をされるかもしれないが実際にはそうではない。
建築が生活の一部である限り、どの詳細もその生活との関わりを示す機能と形があるということも認識させられる。そして建築計画に求められる用途と地域性が、その地域の歴史性をも反映され、生活との関わりを演出される手段を建築に表現するのである。
そして時代に応じた形、スタイル、素材などを生かしながら、オーナーの要望に適応させて架空の動物達が登場する。
ガウディの場合はドラゴン的なイメージを随所に表現している。
このドラゴンはギリシャ神話、そして聖書に由来する。つまり、ガウディは、抽象的な話しを建築に具現化させる手段を芸術作品として捉え、素材、歴史、物語や神話を合成させている。
まさに、生活素材をベースにした合理的で芸術的な表現によって、建築を通してガウディが演出をみせてくれているのである。
これを気まぐれな作品として見る人もいるかもしれないが、実際はそうではない。彼の審美眼を通しての建築言語を通し、建築家の立場からの表現であることに終始する。
ガウディは文章作家ではないと言う自覚のもとに、建築作品を通して彼のポリシーが演出されている事を理解する。そうすることで、それらを見る第三者はそれぞれの立場と思考を挑発して新たな思いを産み出してくれる。これが本格的な芸術の世界であり、自由な解釈を活性してくれる手段となる。

少なくともガウディの下請けをしていたホセ・バイヨの言葉やジョワン・ベルゴスとの会話でも、ガウディによる芸術作品のあり方を示していることが読み取れる。そこでカサ・バトリョの場合は、建築機能、物語、物理的で技術的な解決などもされながら有機的な表現がなされている。より総合的な視点による解決方法を取り入れられていることから、気まぐれなアイデアと言う言葉は当てはまらないということになる。
     
田中裕也氏プロフィール
 
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