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建築家トップ > バルセロナ便り > 第304回

実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

既成概念に囚われない思考

ガウディの作品は1900年以降、成熟期の作品となる。
例えば1900年に完成させたカサ・カルベの作品は、高さ制限をオーバーしていたことは知られている。ちょうどファサードの半円アーチの破風部分がオーバー部分となっている。にもかかわらず施行された経緯が明らかにされていない。1902年から1906年の作品カサ・バトリョでも同じように高さ制限をオーバーして施行されている。ところがその地区全体が当時の基準とは違う形で計画されていたことから、そこの地区だけを「無法者地区」(Discordia)とも言われていた。中でもドメネック・モンタネールのカサ・モレラやプーチ・カダファルクのカサ・アマジェなどは、ガウディのカサ・バトリョと並んで芸術的作品のレベルで建ち並んでいる。さらにその前を通っているパセオ・デ・グラシア通りはバルセロナでも高級ショップが立ち並ぶ界隈となり、今ではバルセロナで最も高級な地区となっている。カサ・バトリョから更に山手に2ブロック上がると1906年から1910年にかけて計画されたカサ・ミラが登場する。おそらくこれが当時としては最大級にスキャンダルな建物であることは当時の風刺画やエピソードでも伺うことができる。

その特異性とは、例えばこのファサードのパセオ・デ・グラシア通り沿いに柱が、1m以上歩道にはみだし、役所からの勧告で撤去または罰金を課されるという知らせを受けていた。それにも関わらず、それを軽く吹き飛ばすかのようにガウディは「それならその柱を切って、その断面に『役所によって切りなさいと言われた』と記名する」という返事をしたという。このエピソードに続いて、この工事も終わりかけている時に建物全体のボリュームが4,000立方メートルオーバーしているという通達があってまた撤去か罰金という連絡があった。ところが役所ではその建物を大事と考え、そのための審査会が開かれ、1909年12月28日には建物が記念碑的な性格があり厳格な市条例の基準に合わせる必要はないとされた。
その時の建築主事がホワキン・バセゴダであった。
彼はガウディの支持者でもあったことからこのカサ・ミラの作品を「建築ではなくモニュメントとしては」という見解を提案され、それが認可されることになった。この話は、故バセゴダ教授からの話であった。

ガウディは、施行中でも建築基準をまるで無視したかのように計画していた一面もある。私が気になるのはどうしてガウディはそれまで強気になれたのだろうかということでる。
つまりは視点を変えることで社会的規則があっても乗り越えられる手段があるということを示唆しているのだろうが、ではどのような正当性をガウディが考えていたのだろうかということである。

人間社会の曖昧さなのだろうか。

秩序や規則は、社会があってのことである。そこでの解釈や発想は、既成概念を取り除き社会的拘束から離れることによる自由な発想となる。
それでさらに原点に近づける。

すると使い慣れた言葉や単語も現実的な勘違いもあったりすることに気づく。このようにすることで学生時代の教育と独学での差が見えてくる。
     
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